「水俣病を宝物として伝える」プログラム進行中

『水俣から埼玉へ、そして福島へ−いま、伝えたいこと』

熊本県水俣市から胎児性水俣病の方たち4人が、埼玉大学教育学部「水俣合宿」2011安藤ゼミに招かれ長旅を押して埼玉に出て来られた。安藤ゼミは10年に渡り水俣を訪れている。
「水俣病」は1956年水俣市の漁村に発生した原因不明の奇病として公式に確認され、3年後(1959年)にチッソ水俣工場の排水が原因である事が判明した。
メチル水銀などの重金属を不知火湾に流出し、魚介類を大量に汚染していた。その間、情報はなかなか公表されず、特に漁村の人々は魚を食べ続けた。
胎児性水俣病の発見は1962年に初めて確認された。胎児を守るといわれてきた胎盤というバリアがもろくも崩れうる証明となってしまった。1968年に国が水俣病をチッソ工場の公害事件と認定するまでの9年間、排水は流され続けた。

今回いらした永本さんは1959年、一番若い松永さんは1963年生まれ。それぞれがすでに50才近くなられている。様々な障がいを持ち生まれてきた胎児性患者たちは、今まで生き抜いてきた自信と誇りを持って、水俣で何が起こったのか、真実を伝えたいと、小学校などで交流授業をおこなっている。身を持って真実を伝える意味を教えている。
当時、高度経済成長時代を牽引するチッソ工場を存続させてきた国や政治の状況が、今回の原発事故の対応とあまりにも重なる。

「私の宝物」

永本賢二さん:父親はチッソ工場に勤めていた。永本さんの病気のことで、父親は本社まで乗り込んで抗議してくれたと、途中声を詰まらせた。そのことが何よりもうれしかったと。小学校1年の時に鉛筆を買いに行くと「何でん補償金で買うとね」と店のおばちゃんに言われた。姉も自分も「補償金」という言葉が大嫌いだった。原発の子ども達のことも同じように分かる。原発の子どもの事をみんなにも考えてほしい。

松永幸一郎さん:小さいときは歩けなかった。みなそうだったが、三輪車が車いす代わりだった。歩けないことで学校には行けず、親元から離れて病院の施設(ユノコ病院)に移り、そこの学校に通った。7才だった。20才の時に初めて水俣病と認められた。自身でも水俣病の事は、あまり知らなかった。2年前まで歩けていたが、今は車いす。大好きだった自転車もあきらめた。状況を受け入れるのに時間はかかった。健常者として生まれたかったが、神様から与えられたものとして、前向きに捉えたい。患者には突然歩けなくなる2次障がいが出ることが多いが何の補償もない。

金子雄二さん:言語障害をもっとも受けている。家族は全員水俣病。特に情報もなく、汚染された魚を食べ続けた父は劇症で1年後に亡くなる。家のすぐそばの磯が遊び場だった。やんちゃで町のヤンキー?とつきあいもあった・・働きたい気持ちが強く、若い時はパチプロを目指したこともある。

長井勇さん:病院にある学校に12才で入学、21才で卒業した。学校に行けたことが1番の宝物。エレベーターのない時代に車いすで電車を乗り継ぎ、どこにでも出かける行動派。車いすが足替わりだった。昨年全身の力が急に抜けてしまい、今回は4人の介護があってここまで来た。

 おだやかに、時に顔中くちゃくちゃにして笑う陽気な4人の元気な裏側にある過酷な生きざまを垣間見る。
被害者であると同時に加害者でもある水俣と福島の構図は東京に居る私たちにも問われていることを、しっかり受け止めたい。  (和田安希代)